ずっとそこにいてくれ。

本や音楽、映画などエンターテイメントについてや、日々の雑感。感じる事をひらいて、むすんで、2歩すすむ。そっと見守って下さい。お願いします。

数年越しの「映画小説集」と状況の確認

混沌とした時代ですが皆さん調子はどうですか?

最近気になる言葉は「自己愛性パーソナリティー障害」です梶本鐘広です。

 

最近気づいたんですが「満員電車なのに皆無言」って結構怖いですね!気付かなきゃ良かった!

 

村上龍の「映画小説集」を買いなおしました。

と、いうのも、この「映画小説集」、定期的に読みたくなるんですよね。短編集だし、読みやすくて中毒性があって、南国のフルーツみたいな。幻みたいな。「青春」っていう虚構みたいな。いやよく分かんないですけど。

 

主人公の「矢崎」は、ヤンキーからもがり勉からも一目置かれるようなタイプの、すごい奴。しかもスポーツマン。なのにジャンキー。若さと過剰を、自傷行為のような激しいセックスと麻薬で相殺しようとしている。

(話はそれるけど、この短編集は時系列的に「限りなく透明なブルー」の前時期にあたる。執筆時期は時系列とは異なる。)

この物語の中では、徹底的に否定されるのは、灰色の世界、つまり現世、つまり青春の外、自分にまだ来るはずのない錆びた日常、である。

 

といっても、苛烈な場面こそあれ、矢崎は18歳。19歳の地図ほどにも広くはない、18歳。

その日常は、イリーガルでありつつも謎にほのぼのしている。

電車で会ったプータロー二人と立川に米兵の死体洗いバイトを探しに行く。

銭湯のバイトを一日でやめる。

 

その一方でエキセントリックな、何か過剰な女達との非日常的な日常。

麻薬。鬱屈。体力。

 

この喜劇的なまでのアンバランスたる美、シュールな美が青春なのかもなあ。

 

5等星な青春を送った自分でも、「若さ」について思い出した。

 

この「映画小説集」は、過去恋をした時、恋をしたい時、何かが過剰(つまり欠落)な時、むさぼり読んだ気がする。

電車の中で。風呂の中で。公園で。

この作品が既に自分の青春の一構成要素だという事実に気付く。ムムゥ。

 

これを久しぶりに読んだのはワクワクすることを忘れてたと気づいたからだ。胸を躍らせずに生きるには生はつらい。

心の溝に落ちた時、嘘でも心を救ってくれるのが作品だった。

それは本でも音楽でも。人は悪い面だけじゃない、と思える。

 

 本当の愛を確認しましょう。

では!